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企業倫理エッセイ 第2回 企業倫理の歴史をさらっと見てみよう!

経営開発・国際委員会 「企業倫理エッセイ」

第2回 企業倫理の歴史をさらっと見てみよう!

 まいどっ! エッセイもどきの駄文の第2回です。前回は結構多くの方に読んでいただいたようで、本当にありがとうございます。
 まあ、よく言われるのは「長ぇ~よ!」という感想なんですが、そこは我慢していただいて、「O監事のしゃべりと高木の文章は長い!」というのを共通認識として持っていただければと思ったりします。(うん、O監事は完全にとばっちりですね。)
 さて、今回は「企業倫理の歴史」をテーマにお話させていただきます。

「企業倫理の歴史」は浅い?

 さて、企業倫理の歴史ということなんですが、現代的な企業倫理の成立は意外に最近のことだと言われています。「現代的」というのは、企業統治(利害関係者への説明責任、経営・財務状況の透明性の確保など)や法令順守、持続可能社会を実現するための自然環境・社会環境・人権問題などへの取り組みを指していて、現代においてCSR(企業の社会的責任)などと呼ばれています。
 学問分野としては、1980年代に確立された新しい分野で、一般的には21世紀に入って、アメリカのエンロンやワールドコム等の不正行為、日本の雪印等の不祥事をきっかけにして、また環境問題への意識の高まりななども受けて、大きくクローズアップされるようになって来ました。そういった意味では、企業倫理というのは非常に新しい認識なんですね。

 ただ、一方では我々が仕事をする上において、普通に認識している企業というか商売の倫理というのは、遠い昔から脈々と受け継がれているものがあると思います。たとえば、江戸商人の「職務に由り自己の利益を図るべからず」「我営業は信用を重じ、確実を旨とし…」(住友家家訓)や近江商人の「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」などはすっきりと納得できる内容ですね。商売を行うにおいて、商売相手や世間の信用を得ることが大切であることは今も昔も変わりないことがよく分かります。

「利潤を得ること」への恐れ

 上で見たように、現代的な意味における「企業倫理」自体は最近のテーマではあるのですが、現代を生きる我々の企業においてもその企業活動の中核となる「倫理」意識は、かなり古くからあるものと分かります。
 ところで、なぜ「商売」にはこうした倫理意識が特に必要になるのでしょうか?
 そこには「利潤・利益を得ることへの恐れ」があるように私には思われます。

 「商売」というものがいつから始まったかは当然定かではないでしょう。少なくとも最初期の交易方法であった交換経済や贈答経済においては、商売というものは成立していなかったと思われます。(もちろん地域的な差異性に基づいた交換比率の変更による「儲け」があった可能性はありますが。) 
 その後、交易が盛んになるにつれ、自然発生的に貨幣が使われだしたようです。紀元前1600年頃には中国で貝の貨幣が使用されており、紀元前7世紀にはリディアで鋳造貨幣が始めて作られています。紀元前数世紀のころには、多くの地域で貨幣が流通するようになったと考えられます。当初その多くは対外交易に使用されたと見られていますが、貨幣制度の発達(兵士への給与支払いに貨幣が用いられるなど)とともに地域内での商品交換にも貨幣が使われることになりました。こうした中で、物を売って対価を得る「商売」も成立してきたと思われます。

 ただ、農業などのいわゆる一次産業が経済的基盤であった社会において、「商人」という職業の社会的地位は相対的に低く、中国では豪商に対する懲罰的な物語が多く見られたり、日本の身分制度では「士農工商」と意図的に低い身分を与えられたり、ヨーロッパでの「ベニスの商人」におけるシャイロックのように、特に金融業者(ユダヤ人が多かったことにもよりますが)への侮蔑的な見方が強かったようです。
 もちろん商業の重要性を認識し、便宜を図った統治者なども多かったですし(日本なら織田信長の楽市楽座とかね)、商人がその財力などで尊敬を集め権力を握ることも多々あったと思います。しかし、一般的な認識としては、「商売」というものに対し少しばかりの「後ろめたさ」を感じていたように思われるのです。

 これは、たとえば1次産業に比べ労働集約性が高く(多くの労働を投下した商品を仕入れる)、また地域的な差異性や希少性による労働外の付加価値が付けやすい(珍しいものは高く売れる)といった他の業種に比べ利潤を生み出しやすい(と見えてしまう)商業という業種特有の構造が、圧倒的多数を占める農業従事者からは、「楽で」「ずるい」行為に見えたのではないかと想像します。
 こういった感覚って、現代でも感じることってありますよね。ホリエモンや村上ファンドが一世を風靡した時や、一証券マンが納税ランキング1位になった時など、「何だよ、株や書類を左右するだけで大金稼ぎやがって…」って思いませんでした? 私はちょっと思いましたよ。こうした感覚が結構一般的な意識の底流に流れていたからこそ、彼ら(証券マンは除きます)が訴えられたとき、世論は検察に拍手喝采を送ったのではないかと思います。

 こうした利潤を生み出しやすい「商売」に対するやっかみを、当然商人たちは敏感に察知していたでしょう。だからこそ「利潤を生み出すこと」への恐れを根底に持ち、辞を低くして信用を得ることを第一と考える商道徳を商人たちが大切にしてきたと考えるのは、少々意地悪すぎるでしょうか?

西洋における「商売」の解放

 その後、中世になると為替や紙幣といった信用創造や保障のシステムが整備され、洋の東西を問わずますます商取引が活発になっていきます。しかし、上で述べたような「後ろめたさ」は解消されず、特に西欧においてはキリスト教的禁欲主義のもと、商業は少なからず背徳的色彩を帯びていました。

 そんな中、16世紀にマルティン・ルターによる宗教改革が起こります。この改革が西欧社会に与えた影響は多岐にわたりますが、商業上の「倫理」において重要であったのは、ルターが世俗的な労働も修道院で行われるような神から与えられた「天職」であると規定したことです。
 詳しいことはM・ウエーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んでいただくとして(すごく薄いけど、分かりにくい本です!)、簡単に説明しますと、新教(プロテスタント)、特にカルヴァン派は合理的・禁欲的な世俗の労働によって神の国に到れる「救い」が得られると説きました。更に、「神の栄光」は有益な職業労働から生まれるとされ、その有益さはその職業がもたらす「収益性」で測ることが出来るとされました。つまり、宗教改革以前は「後ろめたい」ものであった商業が、逆に「神の栄光」を増大させる「天職」として宗教的権威に裏打ちされたのです。
 そりゃー、商売にも精が出ますよね。働けば働くほど、稼げば稼ぐほど「救い」に近づくんですから。こうした状況下で、プロテスタントによる商業は更なる発展を遂げます。特にカルヴァン派の多かったイギリスでは、18世紀に世界で始めてとなる産業革命を成し遂げます。西欧的資本主義の成立です。

近代的企業倫理へ

 その後、経済的発展に伴って、商業活動における宗教的色彩は影を潜めていきますが、その企業倫理の根底には宗教から受け継がれた禁欲的・合理的精神が流れています。
また、経済発展によって企業の力が強力なものとなっていくにつれて、企業は様々な社会的問題に対処しなければならなくなります。
 産業革命当初は過酷な労働条件の改善、国際的な商取引のルールの取り決めなど。自然権(基本的人権)などの考え方が定着してくると、それらにも対応しなければなりませんでしたし、労働者が資本家に搾取されているという訴え(マルクスなど)も起こります。植民地主義についても時代の流れとともに解消していかざるを得ませんでした。(未だに第三世界からの搾取は完全になくなってはいませんが…)


 こうした様々な状況に対応するうちに、自ら醸成されてきた倫理観が「フェアである」ということのように思います。労働者に対し、顧客に対し、原料の供給者に対し、社会に対し、様々なものに対して「フェアである」ことが、近代の西欧企業にとって最も重要な倫理観となっていると思われます。(リーマンショック後の銀行・証券会社の経営陣が多額のボーナスや退職金を手にしたことも「フェア」ではないと強く批判されましたね。)

 日本においては、西欧ほど劇的な商業に対する価値観の変化はありませんでしたが、明治期以降、西欧に追いつくことが国家目標とされ、国策として殖産興業が奨励されたことにより、商業というものの有用性が国によって裏打ちされたように思われます。工業・商業(特に外貨を稼ぐ貿易業)は明治期以降の花形産業となり、その身分は江戸時代の「第4番目」から名実ともに解き放たれていったと考えられます。

 その後、日本でも60年代の公害問題や長時間労働問題など、企業責任が強く問われる状況が発生し、企業が求められる倫理意識が変化してきました。地域との共存なんて考え方もこの辺りから出てきたんではないでしょうか?
 しかし、企業の倫理意識の中核には、江戸時代と同じような「辞を低くして、信用を得る」という思いが受け継がれていると思われます。 逆にまた、それが最も新しい「企業倫理」に対応するものであるように感じられます。

 今回はかなりまじめな口調になってしまいましたね。まあ、たまにはいいんでないでしょうか? ちなみに滔々と述べた歴史認識はあくまで私見ですから、あまり信用しないよーに!

 さてさて、「昔の話はいーよ! 今の話をしろよ!」と仰る方も多いかと思います。ということで、次回は現代的なCSRの考え(これもアメリカとヨーロッパで微妙に違うみたいっす)や国連が提唱するCSRのあり方なんかを紹介しちゃいます。

それでは、また来月お会いしましょう!

高木 洋

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2010-02-25

企業倫理エッセイ 第1回 「倫理」ってなに?

経営開発・国際委員会 「企業倫理エッセイ」

第1回 「倫理」ってなに?

皆さん、こんにちは!(もしくはこんばんは! もしかしておはようございます!?)

本年度(社)磐田青年会議所 経営開発・国際委員会委員長の高木です。よろしくお願いします。
さて、我々の委員会は磯田理事長の所信に基づいて、地域の青年経済人としての倫理観を養うことが出来るような活動を行っていきたいと考えています。

私たち委員会メンバーも一生懸命勉強して、楽しく分かりやすい「学び」の場を作っていきたいと思いますので、皆さんも気楽な気持ちでご参加いただければと思います。

上に挙げた「倫理を学ぶ場」のひとつとして、毎月倫理に関する様々なトピックを語っていきたいと思います。まあ、こんな倫理意識が欠如している人間の書くことですから、興味本位で読んでいただいてかまわないんですけどね!
とりあえず、はじまり、はじまり~!

「倫理」ってなに?

と言うわけで第一回目なんですが、なんについて書こうかなと思っていたところ、某A直前から「倫理ってなに?」というヒジョーに根源的なご質問を賜りました。

確かにそうですね。この文章でも何の説明もせずに「倫理」「倫理」と書き連ねてきましたけど、私もちゃんと説明できません!(威張るこっちゃないですけどね。)

そこで、こういう場合の常套手段、広辞苑を見てみますと、「人倫の道(人倫とは人と人との秩序関係、転じて、人として守るべき道」「実際道徳の規範となる原理」と書かれています。

なんのこっちゃ!

しょうがないので「道徳」を調べてみると、「ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体」となっています。

うーん、もう少し分かりやすく書いて欲しいですね。

要するに「世間の人が『それはOK!』とか『それはアカンちゃう?』とか判断するときの基準なる考え」ってことになると思います。

「倫理」って絶対的なもの?

こう書くと、「それはいい加減過ぎるんじゃないか? 倫理ってものはもっと普遍的・絶対的なものじゃないのか!」とおっしゃる方もいらっしゃると思います。

そういった意見ももっともです。善悪の価値基準がコロコロ変わるようでは、我々善良な市民(?)は安心して暮らしていけません。「倫理」と言うものは、人と人とのつながりの強固な基礎であるべきですよね。

でも、一方で、少し考えてみると、時代や地域やその人の属するグループの中で、現在の我々が考える善悪の判断が裏返る例が多々あることに気付きます。

たとえば、一般的には「ウソ」は倫理的に悪いことですが、もしあなたが末期ガンの患者だったとしたら、医師があなたに正直にその病状を伝えることは絶対的に「正しい」ことでしょうか? これについては、色々な意見があると思います。「自分なら正直に言って欲し
い。」「いや、心穏やかに過ごすためにも、病状は伏せておいて欲しい。」など、その人の考え方や状況により意見は割れるでしょう。でも、考えてみれば意見が割れること自体が、そこに絶対的な善悪の基準がないことを示しています。

「ウソも方便」などといいますが、ウソをつくことがどんな状況においても必ず「悪」だとは言い切れないんですね。皆さんもひとつやふたつは「良いウソ」を吐いたことがあるんじゃないでしょうか?ちなみに「良いウソ」と言うと私は、「浮気をするなら、ワタシにばれないように上手にウソをついてね(ハート)」なんて女の子に言われてみたいなーなんて妄想しますけど、こんなカワイイこと言ってくれるコ、どっかにいませんかね・・・

閑話休題、その他にも極端な例では、戦争では一般社会では禁忌である「殺人」が賞賛されたり、戦前の日本では天皇の言うことに従うことが(少なくとも一般市民にとっては)道徳的倫理的とされていたりといったことが挙げられます。所属するグループのカテゴリーや生きている時代によって倫理意識が大きく異なることがお分かりいただけると思います。

こういった例を見ると、「倫理」というものが必ずしも「絶対的で普遍的」なものではないことがはっきりすると思います。「倫理」は法律のように凝り固まった価値基準の体系なのではなく、その時代その社会の状況に即し変化していく柔軟な価値の体系なんです。

「倫理」っていいかげんなもの?

ただ誤解して欲しくないのは、だからといって「倫理」というものが、全くあやふやで根拠のの無いいい加減なものというわけではないと言うことです。

広辞苑の定義にもあるように「倫理」とは「ある社会で、(中略)一般に承認されている規範の総体」です。つまり、持続している社会において、「倫理」はその社会が長年に渡って育んできた、歴史的文化的に連続性をもった社会通念(規範)をバックボーンにしています。

そして、それが変化していくにしても、その変化は社会全体の変化に即したゆっくりとしたものであり、その社会の成員の多くに承認されるような基準となるはずです。

このように、「倫理」は根拠のないあやふやなものではなく、逆に「社会」という私たちが形作る実体に立脚した現実的なものであり、またその「倫理」が実体である「社会」のあり方を緩やかに規定していくといった関係にあるのだと思います。

なんか、えらく哲学的な物言いになってしまいました。要するに「倫理ってのは、絶対不変のものじゃないんだよ。でもちゃんと社会に則ったしっかりした規範なんだよ。」ってことです。(だったら、最初からそう書けよって突っ込みが聞こえてきそうです・・・)

私たちに必要な「倫理」って?

さて、というわけで、私たちが向き合うべき「倫理」というのは、私たちが属している「現代の社会」に即した「倫理」、もっと言うと、我々が属しているカテゴリーである「企業の倫理」となるのですが、社会というのは生き物みたいなものなんで、時代や状況によって刻一刻と変化しています。

最近では「グローバル化」や「環境(エコ)意識」といったものが、社会通念として定着してきていて、そういった要請にしたがって、社会のあり方、ひいてはその社会の中にある企業の「倫理」観も変化してきたように感じられます。私たちとしては、当然この変化しつつある「倫理」に対応していかなくてはなりません。

そこで、次回は現状の世界的な「企業倫理」のあり方の変化を学んでいきたいと思います。
来月またお読みいただければうれしいです。

※このエッセイのご意見・ご感想などを、メール・FAX・面と向かって罵倒などの手段でお送りいただけると幸いです。

高木  洋

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2010-01-25